BUSHI NO KAKEIBO / ABACUS AND SWORD

武士の家計簿(ねたばれ注意)

June 11, 2011

 

飛行機にのるときは徹夜で準備して飛び乗って、ということが多いので、いつも飛行機で映画を見るというわけでもないが、それでも時々は見る。で、見た映画を振り返るとなぜか邦画ばかり。これは年を取ったということなのか。。。

 

で、先日のタイ出張の時に機内で観たのが「武士の家計簿」。森田芳光監督。加賀藩御算用係の一族のライフヒストリー。前半は、借金まみれになりながらも体面を気にして抜本的解決策を打てない江戸時代の武士の姿をコミカルに描く。その姿は、財政破綻寸前の大借金を抱えながら何の手も打たない日本、今後の人口構成の推移から考えて今手を打たなければこのまま悪化するしかないということが明らかとなっているにも関わらず、過去の成功体験や既得権益のしがらみにとらわれてなんの変革も起こせない現代日本の姿そのままだ。監督は、江戸時代の武士を描きながら現代日本を風刺するということを意図的にやっているのだと思う。

いつの世も、借金を返済するには、収入の範囲内で暮らすことから始めるしかない。しかし、この時代の侍という役人階級にはまだ一定の信用があり、借金に借金を重ねるということが成り立ってしまう。そのため、そんなことが永劫に続くはずなどないことに気づくことが出来ない。あるいは気づくのを無意識に拒否している。国の信用で国債を乱発し続ける現代の日本そのものではないか。

 

こんなことが続くはずがない、というあたりまえの事に気づき、変革を起こすのは、しがらみや先入観にとらわれず、事実のみから論理的に思考を組み立てる能力である。江戸の時代に、このようなフラットな論理思考力を持っているということは、相応に浮世離れするということであり、実際猪山家の財政健全化に乗り出す猪山直之は、まるで現代人が江戸の世に舞い降りたかのように浮世離れしコミカルである。でも、江戸よりはるかに進歩的・現代的であると思っている現代の日本であっても、その時代の「常識」を軽々と飛び越え、「時代を超えて当たり前のこと」に気づく能力はやはり異能なのだ。どうしたら我々はそのような地平に到達できるのだろうか。

 

後半は、そろばん侍としてのお家芸をどう子供に伝えるかという話に主題が移る。猪山家は代々算用によって身を立ててきたのであって、そのお家芸は受け継がれ、生きる糧となるべきものである。直之は、フラットな論理思考の結果として、その技・考え方を厳しく息子成之に仕込む。しかし、江戸から激動の明治へ移ろうとする時代、御算用係というあり方そのものが旧習を色濃く引きずった古いものになり始める中、彼が厳しく息子を教育する様は、伝統に固執する日本の頑固オヤジそのものである。そんな父に息子は反発するが、結局は殴られ親父の権威に従わされる。妻も子供をかばうものの、最終的にはけなげに直之に従う。前半進歩的と見えていた直之の生き方がが、後半は伝統という硬い鎧をまとって描かれる。でも、この伝統的な「家」のあり方は、これはこれでなんだか切ないような懐かしいような、失ってはならなかったあり方のようにも見えてくる。また成之の算用の技は明治の世にあっても重宝され、結局は父に仕込まれた伝統芸によって成之は身を立てることになり、父子も和解する。(この伝統的な家のあり方は、多分に女性の献身(というか犠牲?)を要求するモデルであって、そのことのへの批判は多々あるのだろうけれど、ここでは置いておく。)

 

この前半から後半への転回こそが、この映画の真骨頂ではないか。古いしがらみでがんじがらめな日本の中で、フラットな論理的思考能力で生きることの重要性をコミカルかつ痛快に描きつつも、日本社会の伝統的な家族関係や仕事観・職業倫理感を美しく優しく描ききった。このバランス感が、この映画を説教くさくすることなく、上質なものにまとめあげた所以だったのだろうと思う。

 

守るべきものを見抜いて守り、変えるべきものをそう見抜いて変えるための行動を起こす。あらまほしきことよ。とてもいい映画でした。お薦め。